「かいもり便り」を読みにきてくださっているみなさん、いつもありがとうございます!
最近はめっきり更新できていなくて申し訳ないです。
それもそのはず、私たちはかいもりにいないので、かいもりからの便りが書けないのであります。
私たちが日本へきてからもうすぐ3ヶ月になります。
中・長期の予定で来たものの、はっきりとしたことがなにも決まっていなかったのですが、しばらく居ることになりそうです。(数年~?)
NZにいたのは2年半ほどですが、その間に結婚したり、出産したりいろいろなことが起こりました。
そう書くとまるで激動の時期だったように聞こえますが、実はこの2年半は私の中ではとっても「静」な時だったのです。
わかってもらえるように説明する自信はないですが、自分からこうしたいと思って動いていたのではなく、自分の周りに起こるできごとに身を任せていた、という感じの2年半でした。
それは、私の意図とかではなくて人生のサイクルがちょうどそういう時期を迎えていたという感じがしています。
もちろんそれはそれ以前に動いたことに結果ではあるのですが、とにかくじーっと(静)していた2年半でした。
そしてチェイ、やえちゃんとともに日本へ来て、少しずつまた新たなサイクルが始まっていく気がしています。
「静」から「動」へ。
じっとしていたところに、少しずつ「動」の風が吹いてきて、旅はまたいろいろな展開をみせてくれそうです。
というわけで、「かいもり便り」も今後、姿を変えてお送りすることになるかもしれません。
いまはまだ転換期間中ではっきりとしたものは何も見えていないのでなんともいえませんが。
ちなみにかいもりには、我々もまた時々戻ったりもすると思いますが、今はブログでおなじみのMr,Hが住んでくれています~。
2012年8月18日土曜日
2012年5月8日火曜日
夫婦になる、家族になる。
このあいだいつものようにチェイが、
「ちょっと、用事があります。」 (「トイレに用を足しに行きます。」の意味)
と言ったので、
「ふうん。」と返事してやえちゃんにおっぱいの続きをあげ、
その後でおむつをかえようとしていると、
戻ってきたチェイが、
「僕がおむつをかえている間にトイレに行ってくれば。」と言ったので、
「なんで私もトイレに行きたいってわかったの?」と聞くと、
「だってそう言ったじゃん。」と言うので、
「え、言ってないよ、ただ’ふーんって言っただけなのに。」と言うと、
「そのふうんの言い方で、そうだとわかった。」と言うのです。
その後思わずふたりで顔を見合わせて、
「夫婦になったねえ~!!」と言ったのでした。
「ふうん」のイントネーションで意思を伝えたのは初めてですが、
話をしていて私の頭にぱっと浮かんだことが、
次の瞬間チェイの口からでてきたりすることは、ときどきあります。
私は思ったことが口から出てくるまでに時差があるタイプなのですが、
チェイは思ったことがすぐ口をついて出てくるタイプなので、
まるでテレパシーが届いたのかなと思わせるようなタイミングだったりして、
私はよく、ひとり心の中で感心してしまいます。
妊娠中にひとりで旅をしていたときに、
今まではこんな風に自分ひとりの為に自分の時間やエネルギーをつかってきたけど、
これからは家族の為に使っていくようになるんだな、と心に刻んだことがあったのですが、
夫婦や家族になるっていうのは、自分という殻がどんどん薄くなっていくような感じだなと思います。
薄くなるだけじゃなくて、他の人のとくっついて、融合して、ところどころはどこが境目だかわからなくなって・・・。
一緒に居ることで当然、考え方や価値観を影響し合うし、妥協しなければならない部分もたくさんでてきて、自分の殻が薄まり、くっつき、姿をかえていく。
逆にひとりでいるときは、なんでも自分の判断、価値観、考え方でまわっていくので、どうしても自分という殻が強まっていく。
でもそうすると、他人の入る余地が無くなっていってしまうんだなーって、今はよくわかる。
出会いを求めている人は、普段自分がしないようなことをしてみろ、ってどこかで聞いたことがあるけど、それはきっと自分の殻を弱める為なんだなと思う。
いつもの安心できるテリトリーを飛び出して、自分らしくない(と自分が決め付けている)行動に出てみると、自分をとりまく世界がずんずん変わっていくんだろう。
「ちょっと、用事があります。」 (「トイレに用を足しに行きます。」の意味)
と言ったので、
「ふうん。」と返事してやえちゃんにおっぱいの続きをあげ、
その後でおむつをかえようとしていると、
戻ってきたチェイが、
「僕がおむつをかえている間にトイレに行ってくれば。」と言ったので、
「なんで私もトイレに行きたいってわかったの?」と聞くと、
「だってそう言ったじゃん。」と言うので、
「え、言ってないよ、ただ’ふーんって言っただけなのに。」と言うと、
「そのふうんの言い方で、そうだとわかった。」と言うのです。
その後思わずふたりで顔を見合わせて、
「夫婦になったねえ~!!」と言ったのでした。
「ふうん」のイントネーションで意思を伝えたのは初めてですが、
話をしていて私の頭にぱっと浮かんだことが、
次の瞬間チェイの口からでてきたりすることは、ときどきあります。
私は思ったことが口から出てくるまでに時差があるタイプなのですが、
チェイは思ったことがすぐ口をついて出てくるタイプなので、
まるでテレパシーが届いたのかなと思わせるようなタイミングだったりして、
私はよく、ひとり心の中で感心してしまいます。
* * *
妊娠中にひとりで旅をしていたときに、
今まではこんな風に自分ひとりの為に自分の時間やエネルギーをつかってきたけど、
これからは家族の為に使っていくようになるんだな、と心に刻んだことがあったのですが、
夫婦や家族になるっていうのは、自分という殻がどんどん薄くなっていくような感じだなと思います。
薄くなるだけじゃなくて、他の人のとくっついて、融合して、ところどころはどこが境目だかわからなくなって・・・。
一緒に居ることで当然、考え方や価値観を影響し合うし、妥協しなければならない部分もたくさんでてきて、自分の殻が薄まり、くっつき、姿をかえていく。
逆にひとりでいるときは、なんでも自分の判断、価値観、考え方でまわっていくので、どうしても自分という殻が強まっていく。
でもそうすると、他人の入る余地が無くなっていってしまうんだなーって、今はよくわかる。
出会いを求めている人は、普段自分がしないようなことをしてみろ、ってどこかで聞いたことがあるけど、それはきっと自分の殻を弱める為なんだなと思う。
いつもの安心できるテリトリーを飛び出して、自分らしくない(と自分が決め付けている)行動に出てみると、自分をとりまく世界がずんずん変わっていくんだろう。
2012年4月24日火曜日
名前のこと
そのおばあちゃんのことについては、以前にもブログに書いたことがあります。
(読みたい方はこちら→「おばあちゃんのこと」)
もともと私には、おばあちゃんの名前をつける、という発想はなかったのだけど、チェイが、「男の子が産まれたらおじいちゃんの名前をつけたい」と言っているのを聞いているうちに、影響されたのでした。
チェイは見かけによらず、家族の歴史を調べたり家系図をつくったりすることに、情熱をもっているのです。
おばあちゃんの名前をつけるのがいいなあと思ったのは、お母さんがいて、おばあちゃんがいて、そのまたおかあさんがいて・・・と受け継がれてきた、大きな命の流れの、その先に存在しているんだよってことを、いつも覚えていられたらいいなと思ったから。
あたりまえのことだけど、ときどきそういうことを忘れて、ぽつんと切り離された存在のように思ってしまうことも、長い人生の中ではあると思うから。
それに、なんだかおばあちゃんがずっと見守ってくれるような気もして心強いです。
おばあちゃんのことを考えたり、話したりする機会が増えるのもうれしいことだなと思います。
もともと短くて呼びやすい名前がいいなと思っていたので、それもぴったりでした。(英語圏の人にはだいぶ呼びにくいみたいですが・・・。)
まえの投稿にも書いたように、NZへ来てからそのおばあちゃんのことをよく考えるようになったのも、今となっては不思議なつながりだなあと思います。
名前はひらがなにしようか迷ったけど、やっぱり八重桜の「八重」にしました。
ちょうど桜の時期に生まれたし。
やえちゃんはNZでは秋生まれだけど、日本では春生まれ。
私は日本では秋生まれだけど、NZでは春生まれ。
2012年3月18日日曜日
二人の時間 ~お気に入りの場所 パート2~
出産予定日まであと数日となりました。
最近の私たちは、残り少ない二人だけの時間を惜しむように過ごしています。
こんな廃屋で、ハチャメチャながらも愉快でのんきな生活を送っている私たち。
親になるからといって、変わらない部分の方が多いだろうけれど、一人の新しい人間が二人の間に入ってくることによって、どうしても変わっていってしまうものもあるはず。
”Dad”になる前のChayと、”お母さん”になる前のHanaeの時間はもうすぐ終わってしまうのです。
何かにさよならを言わなければならない状況が苦手な私は、昔よく卒業式で号泣していましたが、なんかそれに近いような気持ちにもなります。
これが最後の週末かも知れないねー、なんていいながら、昨日の夜はフィールディングという近くの街のミニシアターに行きました。(http://www.focalpointcinema.co.nz/home)
この映画館は入り口がカフェになっていて、その奥に小さい小部屋が2つあるだけのとっても小さなシアターです。
上映される映画の選択も、いかにもミニシアターらしく気が利いていてはずれが少ないです。
私たちは贅沢をしたい気分のときにここにでかけます。
なぜなら、映画館の中はこーんな感じだからです♪
席はたったこれだけで、とってもすわり心地のいいソファ、そしてカフェのコーヒーやスイーツ、ワインなんかを飲みながら観ることができるんです!
私たちは、夜8時くらいからの上映にときどき行きます。
ちなみに昨日みたのは"The Iron Women"。イギリスのサッチャー首相のお話でした。長年つれそった夫婦の、お別れのシーンが泣けました。
主演がメリル・ストリープだとは知らなかったのですが、映画館の張り紙を見てそれを知って、かなりテンションが上がりました。
彼女の出演する映画って本当にどれも面白く、いい映画だなと思います。
≪おまけ≫
今朝はひさしぶりに”パンケーキの朝”になりました。
めずらしく、卵、牛乳、ヨーグルト入りのリッチなパンケーキです。
≪おまけ2≫
バフィー(5羽の中のボス)をかわいがるChay。
最近の私たちは、残り少ない二人だけの時間を惜しむように過ごしています。
こんな廃屋で、ハチャメチャながらも愉快でのんきな生活を送っている私たち。
親になるからといって、変わらない部分の方が多いだろうけれど、一人の新しい人間が二人の間に入ってくることによって、どうしても変わっていってしまうものもあるはず。
”Dad”になる前のChayと、”お母さん”になる前のHanaeの時間はもうすぐ終わってしまうのです。
何かにさよならを言わなければならない状況が苦手な私は、昔よく卒業式で号泣していましたが、なんかそれに近いような気持ちにもなります。
これが最後の週末かも知れないねー、なんていいながら、昨日の夜はフィールディングという近くの街のミニシアターに行きました。(http://www.focalpointcinema.co.nz/home)
この映画館は入り口がカフェになっていて、その奥に小さい小部屋が2つあるだけのとっても小さなシアターです。
上映される映画の選択も、いかにもミニシアターらしく気が利いていてはずれが少ないです。
私たちは贅沢をしたい気分のときにここにでかけます。
なぜなら、映画館の中はこーんな感じだからです♪
席はたったこれだけで、とってもすわり心地のいいソファ、そしてカフェのコーヒーやスイーツ、ワインなんかを飲みながら観ることができるんです!
私たちは、夜8時くらいからの上映にときどき行きます。
ちなみに昨日みたのは"The Iron Women"。イギリスのサッチャー首相のお話でした。長年つれそった夫婦の、お別れのシーンが泣けました。
主演がメリル・ストリープだとは知らなかったのですが、映画館の張り紙を見てそれを知って、かなりテンションが上がりました。
彼女の出演する映画って本当にどれも面白く、いい映画だなと思います。
≪おまけ≫
今朝はひさしぶりに”パンケーキの朝”になりました。
めずらしく、卵、牛乳、ヨーグルト入りのリッチなパンケーキです。
≪おまけ2≫
バフィー(5羽の中のボス)をかわいがるChay。
2012年2月3日金曜日
サティシュさんがやってくる!
このブログを読んでくださっている、日本のみなさんにお知らせしたいことがあります。
2月27日にサティシュ・クマールさんの講演会があります!
http://afutures.net/blog/1081.html
サティシュさんのことはご存知ない方も多いかと思いますが、過去に2回来日されて講演会でお話されています。(プロフィールはこちら)
私は2007年のときに初めてそのお話を聞いて、とっても感激しました。
サティシュさんの投げかける、シンプルで力強い言葉は、迷える現代の私たちに道を示し、希望を与えてくれます。
私たちは何を大切に生きていけばいいのか、今世界はどんな変化に直面しているのか。
そういうヒントをもらえること間違いなしです。
私も日本にいたらぜったい聞きに行きたいので、とっても残念です。
サティシュさんのお話はDVDでも聞けるけど、やっぱり本人に直接会って聞ける機会というのは本当に貴重だと思います。
なので、もしピンとくる方がいたらぜひおすすめしますので、聞きにいってみてくださいね!
2月27日にサティシュ・クマールさんの講演会があります!
http://afutures.net/blog/1081.html
サティシュさんのことはご存知ない方も多いかと思いますが、過去に2回来日されて講演会でお話されています。(プロフィールはこちら)
私は2007年のときに初めてそのお話を聞いて、とっても感激しました。
サティシュさんの投げかける、シンプルで力強い言葉は、迷える現代の私たちに道を示し、希望を与えてくれます。
私たちは何を大切に生きていけばいいのか、今世界はどんな変化に直面しているのか。
そういうヒントをもらえること間違いなしです。
私も日本にいたらぜったい聞きに行きたいので、とっても残念です。
サティシュさんのお話はDVDでも聞けるけど、やっぱり本人に直接会って聞ける機会というのは本当に貴重だと思います。
なので、もしピンとくる方がいたらぜひおすすめしますので、聞きにいってみてくださいね!
2011年11月17日木曜日
じゃがいも失踪事件~妊婦の脳の秘密~
ポテトサラダを作ろうと思って、じゃがいもを2つ出しておいた。
が、しばらくするとじゃがいもは忽然と姿を消していた。
そんなわけはない、と思いあちこち探してみるもみつからない。
これはもしや、灯台下暗し的な感じで本人には見えないけど第三者から見たらすぐわかるところにあるに違いないと、外で作業をしていたチェイを呼びつけて探してもらう。
が、じゃがいもたちは一向に姿を見せない。
仕方がないとあきらめかけ、代わりにクスクスのサラダにしようとクスクスを用意していると・・・
あ・・・!、おっ、思い出した!!
犯人はこいつだっ!
このはかり、わたしの目線より高い位置に置いてあるのです。
じゃがいも2つで何グラムなんだろう?と思って、乗せてみたのはいいけどそのまま忘れていたのでした。。。(皿の上は見えないのです)
この失踪事件のみならず、最近の物忘れのひどさといったらありません。
お金をすられた!と思ったら、別の財布に入っていたり。。
メガネをなくした!と思ったら、いつもは入れないところに入っていたり。。。
でもね、これにはれっきとした理由があるんです!
女性の体は脳や目より子宮を優先するようにできているんです!!
前に整体の先生がそう言っていましたもん。
そしてついこないだもNZの助産婦さんも言ってましたもん、
妊娠中は脳が縮むというデータがあるって。
(だから次回質問があったら紙に書いておいてね、と念を押されました。)
ですから体ってすごいな~とつくづく感心するわけです。
そういえば妊娠してから、めっきりと本を読みたくなくなったり、
映画を観るとどっと疲れたりするようにもなりました。
なんか、頭を使うことをしたくないって感じでもあります。
と、いうよりも脳へのアクセスがあんまりできなくなっている状態といいましょうか。
そしてそれが非常に心地いい。
余計な頭を使わないでいるってこんなにいいもんなんだ、と。
普通に何気なく行っている、頭でいろいろ計算したり、段取りを考えたり、裏をかいたり、
そういう脳へのアクセスは、実は必要ないものなのかも、とさえ思えてきます。
そんなこと何にも考えずにいた方が、よーっぽどいい気がします。
もっと体や感覚の声を聞けるようになる気がします。
この、どこかのほほ~んとした感覚をずっと失なわずに生きていきたいです。
でも最近、もの忘れをするとチェイには「脳が小さくなっているからしょうがないね。」とか
また何かあたりまえのことができても「脳が縮んでいるのに、すごいね!」とか言ってバカにされます。
普段よく無くし物をして、あれがないこれがないと言っているのは奴の方なのに~!
≪おまけ≫
私たちのシェアメイト(同居人)。
かいもりの廃屋の屋根裏に住んでいるスターリン一家です。
彼らも今、子育て中らしくひんぱんに虫をくわえて屋根の穴から中に入っていきます。
そういうとき、私が下からじっとみてると、ギャー、ギャーといって鳴きます。
2011年6月17日金曜日
日本がアツイ!
ここ数日で見たニュース動画で、日本がすごくアツイなあ~!と思いました。
菅首相やソフトバンクの孫社長の周りがすごいことになっていますね!!
こんな風に、首相と会社社長とミュージシャンとNPOの人とかが一緒になって団結している光景なんてなかなか見られませんよね。
もしかしたら日本では普通にテレビで流れているものかもしれないのですが、見ていない方がいたらぜひ!
日本はいい国になりそうだなあ・・・!と思わせてくれること間違いなしです。
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg4972.html
http://www.videonews.com/press-club/0804/001933.php
菅首相やソフトバンクの孫社長の周りがすごいことになっていますね!!
こんな風に、首相と会社社長とミュージシャンとNPOの人とかが一緒になって団結している光景なんてなかなか見られませんよね。
もしかしたら日本では普通にテレビで流れているものかもしれないのですが、見ていない方がいたらぜひ!
日本はいい国になりそうだなあ・・・!と思わせてくれること間違いなしです。
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg4972.html
http://www.videonews.com/press-club/0804/001933.php
2011年5月25日水曜日
おばあちゃんのこと
昨日、asahi.comというニュースサイトで、おばあちゃんが住んでいた地域の写真の特集(http://www.asahi.com/travel/rail/gallery/2011tadami/)があったので、いつか書きたいと思っていたおばあちゃんのことを書こうと思う。
NZへ来てから、おばあちゃんのことをときどき考えるようになった。
そのおばあちゃんは、もうずっと前に、私が中学生のころ亡くなってしまった母方の祖母で、私の4人の祖父母の中では一番長生きしてくれて、一番多くの時間を過ごすことができたおばあちゃんだ。
おばあちゃんのことを考えることが多くなったきっかけはきっと、NZへ来て最初に一緒に暮らしたスカイの生活ぶりが、おばあちゃんのことを思い出させたからだと思う。
たとえばスカイは、キッチンからでる生ごみをフタ付のバケツに入れておいて、たまると庭のコンポスト置き場に捨てる。それはやがて堆肥になり、野菜や木の栄養になっていく。(スカイはパーマカルチャーという自然に則した畑や生活の実践方法も学んでいて、裏庭にはそれは素敵な野菜畑とちっちゃな果樹園があるんです。)
私のおばあちゃんは、山深い田舎で、すぐ隣は川、反対側は山というようなところにすんでいたので、台所の生ごみは橋のふもとから川らの茂みに投げていた。それもきっと自然にもどり、大地の栄養となっていっただろう。おばあちゃんがどんなことを思い、そうしていたのかは今となってはわからないけれど、昔の人にとってはきっとそれがあたりまえのことだったんだろうな、と思う。
それからスカイは、庭で取れるりんごやプラム、フィジョアなんかを大鍋で煮て、大きな瓶に詰めて保存している。それらの瓶は台所の上の戸棚にずらりとならび、一年中朝のミューズリーやちょっとしたスイーツに活躍する。
私のおばあちゃんも、味噌や梅漬けを自分のところで作っていた。
ベランダのところに納屋があって、そこに黄色い味噌樽がしまってあった。
お茶を飲むときにはよく、カリカリとしてすっぱい、大きな赤シソ色の梅をお茶請けに食べた。
もしももっと長生きしていてくれたら、おばあちゃんからいろんなものの作り方を教えてもらいたかった、とすごく残念に思う。
そしてスカイの日常には決まったリズムがある。
朝はまず瞑想をしてから散歩に出かける。雨の日も、カッパを着ていく。コースは何種類かあってその日の気分で長さもいろいろ。途中にはブラックベリーやプラムがなっていて時々そういうのを摘んで食べたりしながら。腕をぐるぐるまわしたり、深呼吸したり、体操もしながら歩く。
それからそれぞれで朝ごはんを食べる。
昼食と夕食はみんなで一緒に食べる。昼食の後には必ず1~2時間のお休み(シエスタ)をして、夕食のまえには夕日を見ながら呼吸法を行い、食べる前には必ずみんなで歌を歌ったり、一日の感謝を言葉にしてから食べる。
そして、夕食の後は編み物や縫い物なんかの手仕事をしてゆったりすごす。たまにDVDを観たりするときもあるけれど。
そして日曜日の午前中は教会へ行く。
私が子供のころの夏休みは毎年おばあちゃん家に行っていて、おばあちゃん家の朝は掃除だった。毎日だったかどうかは覚えていないけれど、掃き掃除とモップがけがかならずセットになっていた。まだぜんぜん汚れていないのにな、と思いながら手伝っていた記憶がある。
それから神棚と仏壇の両方に、小さい容器にごはんを山盛りにして祭るのも朝の習慣だったと思う。
あと、お墓参りのときは、床に大きな木のこね鉢をだしてきて、そこに米粉と熱湯を入れてこねておだんごを作った。すごく熱いのにどんどんこねていくおばあちゃんの手はすごいな~と思って見ていた。おだんごはお墓用で、特別おいしいわけではなかったけど、白くて丸いおだんごができあがっていく様子はとても魅力的だった。おだんごやお菓子、やかんに入れた水、お花、そしてお線香をもってお墓参り行くのはお盆の習慣だった。
そして、おばあちゃんは私たち孫に浴衣も縫ってくれた。そういうのも、習いたかったな。
こうして書いてみると、やっぱりいろいろな共通点があることに気づく。
それは、自然に調和した生活だったり、手作り、季節ごとの保存食、日常の中での規律、そして精神性を目に見える形で大切に扱うことなんかだ。
そして、そういうはっきりと見えるところ意外にも似ていると思うところがある。
それは細かいところをあんまり気にしない気質というのだろうか、たとえばちょっと野菜の泥が落ち切れていなくたって、ちょっと醤油にカビが浮いていたって大丈夫、そんな考え方。そしてそれは、自然の近くに暮らしていれば、ごくあたりまえの感覚なんだと思う。
ここにあげたようなおばあちゃんやスカイの暮らしぶりに、特に私が注目してしまうのは、私の育った環境ではあまり見られないものだからかもしれない。
田舎と都会という生活環境の違いも大きいと思うし、時代の流れで無くなっていくものもたくさんあるのだろう。
私が生まれ育った環境では、生ゴミはビニール袋にいれて燃えるゴミに捨てるのが当たり前だったし、保存食を作る必要に迫らせることもなかった。都会に暮らす人にとってはそれが普通。それは日本でもNZでも同じこと。
だから私は生ゴミをりんごの木の下に捨てるとき、特におばあちゃんのことを思いだすんだろう。今の私の暮らしは、私が生まれ育った環境よりも昔のおばあちゃんの暮らしに近いのかもしれない。
スカイのような暮らしがNZで一般的なわけでは決してないし(むしろ少数派だと思う)、日本でも昔ながらの生活を受け継いでいる人もたくさんいると思うので、これらはあくまでも私個人の視点でしかない。
ただ、人間の生活は、たったひとつ世代を隔てただけでもこんなに違ってしまうんだ、ということにやっぱりすごく驚く。
今、私たちはまたすごく大きな変化の時にいるけれど、50年後には私たちの生活はまた大きく変わっているんだろうなと思う。
それが全ての生命にとって、より健やかな方向でありますように。
≪おまけ ~生ゴミをビニール袋に入れて捨てる時、違和感を感じる方へ~≫
(↑Chayと私はこういうところ同じ感覚の持ち主なんです)
ダンボール箱ひとつでも簡単に生ゴミを堆肥にすることができます!
興味あるかたはこちら→「循環生活研究所」へ!
(私は実家にいるとき、ここで買ったダンボールコンポストをテラスに置いて使っていました)
自分の土地がないという人でも、できた堆肥はプランターや植木鉢で使ってもいいし、必要な人にあげてもいいと思います。野菜を作っている人にとっては、堆肥はいくらあってもありすぎるということはないものだと思うので。
生活の中でちっちゃくても自然のサイクルを体感できる暮らしはとっても楽しいですよ!!
NZへ来てから、おばあちゃんのことをときどき考えるようになった。
そのおばあちゃんは、もうずっと前に、私が中学生のころ亡くなってしまった母方の祖母で、私の4人の祖父母の中では一番長生きしてくれて、一番多くの時間を過ごすことができたおばあちゃんだ。
おばあちゃんのことを考えることが多くなったきっかけはきっと、NZへ来て最初に一緒に暮らしたスカイの生活ぶりが、おばあちゃんのことを思い出させたからだと思う。
たとえばスカイは、キッチンからでる生ごみをフタ付のバケツに入れておいて、たまると庭のコンポスト置き場に捨てる。それはやがて堆肥になり、野菜や木の栄養になっていく。(スカイはパーマカルチャーという自然に則した畑や生活の実践方法も学んでいて、裏庭にはそれは素敵な野菜畑とちっちゃな果樹園があるんです。)
私のおばあちゃんは、山深い田舎で、すぐ隣は川、反対側は山というようなところにすんでいたので、台所の生ごみは橋のふもとから川らの茂みに投げていた。それもきっと自然にもどり、大地の栄養となっていっただろう。おばあちゃんがどんなことを思い、そうしていたのかは今となってはわからないけれど、昔の人にとってはきっとそれがあたりまえのことだったんだろうな、と思う。
それからスカイは、庭で取れるりんごやプラム、フィジョアなんかを大鍋で煮て、大きな瓶に詰めて保存している。それらの瓶は台所の上の戸棚にずらりとならび、一年中朝のミューズリーやちょっとしたスイーツに活躍する。
スカイのキッチンで、瓶詰めにされたプラム
私のおばあちゃんも、味噌や梅漬けを自分のところで作っていた。
ベランダのところに納屋があって、そこに黄色い味噌樽がしまってあった。
お茶を飲むときにはよく、カリカリとしてすっぱい、大きな赤シソ色の梅をお茶請けに食べた。
もしももっと長生きしていてくれたら、おばあちゃんからいろんなものの作り方を教えてもらいたかった、とすごく残念に思う。
そしてスカイの日常には決まったリズムがある。
朝はまず瞑想をしてから散歩に出かける。雨の日も、カッパを着ていく。コースは何種類かあってその日の気分で長さもいろいろ。途中にはブラックベリーやプラムがなっていて時々そういうのを摘んで食べたりしながら。腕をぐるぐるまわしたり、深呼吸したり、体操もしながら歩く。
それからそれぞれで朝ごはんを食べる。
昼食と夕食はみんなで一緒に食べる。昼食の後には必ず1~2時間のお休み(シエスタ)をして、夕食のまえには夕日を見ながら呼吸法を行い、食べる前には必ずみんなで歌を歌ったり、一日の感謝を言葉にしてから食べる。
そして、夕食の後は編み物や縫い物なんかの手仕事をしてゆったりすごす。たまにDVDを観たりするときもあるけれど。
そして日曜日の午前中は教会へ行く。
スカイの庭のプラムの木
私が子供のころの夏休みは毎年おばあちゃん家に行っていて、おばあちゃん家の朝は掃除だった。毎日だったかどうかは覚えていないけれど、掃き掃除とモップがけがかならずセットになっていた。まだぜんぜん汚れていないのにな、と思いながら手伝っていた記憶がある。
それから神棚と仏壇の両方に、小さい容器にごはんを山盛りにして祭るのも朝の習慣だったと思う。
あと、お墓参りのときは、床に大きな木のこね鉢をだしてきて、そこに米粉と熱湯を入れてこねておだんごを作った。すごく熱いのにどんどんこねていくおばあちゃんの手はすごいな~と思って見ていた。おだんごはお墓用で、特別おいしいわけではなかったけど、白くて丸いおだんごができあがっていく様子はとても魅力的だった。おだんごやお菓子、やかんに入れた水、お花、そしてお線香をもってお墓参り行くのはお盆の習慣だった。
そして、おばあちゃんは私たち孫に浴衣も縫ってくれた。そういうのも、習いたかったな。
こうして書いてみると、やっぱりいろいろな共通点があることに気づく。
それは、自然に調和した生活だったり、手作り、季節ごとの保存食、日常の中での規律、そして精神性を目に見える形で大切に扱うことなんかだ。
そして、そういうはっきりと見えるところ意外にも似ていると思うところがある。
それは細かいところをあんまり気にしない気質というのだろうか、たとえばちょっと野菜の泥が落ち切れていなくたって、ちょっと醤油にカビが浮いていたって大丈夫、そんな考え方。そしてそれは、自然の近くに暮らしていれば、ごくあたりまえの感覚なんだと思う。
ここにあげたようなおばあちゃんやスカイの暮らしぶりに、特に私が注目してしまうのは、私の育った環境ではあまり見られないものだからかもしれない。
田舎と都会という生活環境の違いも大きいと思うし、時代の流れで無くなっていくものもたくさんあるのだろう。
私が生まれ育った環境では、生ゴミはビニール袋にいれて燃えるゴミに捨てるのが当たり前だったし、保存食を作る必要に迫らせることもなかった。都会に暮らす人にとってはそれが普通。それは日本でもNZでも同じこと。
だから私は生ゴミをりんごの木の下に捨てるとき、特におばあちゃんのことを思いだすんだろう。今の私の暮らしは、私が生まれ育った環境よりも昔のおばあちゃんの暮らしに近いのかもしれない。
スカイの庭のりんごの木
ただ、人間の生活は、たったひとつ世代を隔てただけでもこんなに違ってしまうんだ、ということにやっぱりすごく驚く。
今、私たちはまたすごく大きな変化の時にいるけれど、50年後には私たちの生活はまた大きく変わっているんだろうなと思う。
それが全ての生命にとって、より健やかな方向でありますように。
≪おまけ ~生ゴミをビニール袋に入れて捨てる時、違和感を感じる方へ~≫
(↑Chayと私はこういうところ同じ感覚の持ち主なんです)
ダンボール箱ひとつでも簡単に生ゴミを堆肥にすることができます!
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(私は実家にいるとき、ここで買ったダンボールコンポストをテラスに置いて使っていました)
自分の土地がないという人でも、できた堆肥はプランターや植木鉢で使ってもいいし、必要な人にあげてもいいと思います。野菜を作っている人にとっては、堆肥はいくらあってもありすぎるということはないものだと思うので。
生活の中でちっちゃくても自然のサイクルを体感できる暮らしはとっても楽しいですよ!!
2011年5月10日火曜日
餃子を包む時間
今日はNZへ来てから初めての餃子に挑戦しました。
ずっと作りたいとは思っていたけど手を出していなくって、でも最近庭のニラがちょっとずつ大きくなってきたし、先日大玉のキャベツを買ってまだ半分も余っていたので、今だ!と思って。だいぶ前にパーマストンで見つけて買ってあった皮も、うちのちび冷凍庫でなんとか生きのびていてくれてよかった。
餃子って作るのにすごく手間がかかるんだけど、餃子を包む時間ってなんか妙に記憶に刻まれていたりしませんか。
今日一人でもくもくと餃子を包んでいたとき、餃子にまつわるいろんなシーンを思い出しました。
もう何年も前、誰かの家に集まって餃子パーティをした時、その中に一人料理の得意な男の子がいて、みんなでひたすら刻んだボール3杯分の白菜やらニラやらキャベツやらを、塩をして水分をぎゅーって絞ってから具とまぜるとおいしいんだよって教えてくれたこと。
去年の夏、Chayと日本に帰ったとき実家でお母さんが餃子を作ってくれて、Chayと二人で皮に包むお手伝いとしたときのこと。
つい数ヶ月前、今はもう日本に帰ってしまったお友達の家で集まったときに、一緒に餃子を包んで、包み方が違うねなんて話してたこと。
餃子を包む時間は、なんだかすごく特別な感じがします。
ゆったりと食事の準備をするからこそ生まれる時間だからでしょうか。誰かと一緒にやるからでしょうか。
座ってひとつひとつの皮を手にとって、水をつけ、具をすくい、ひだをつける作業をしていると、あったかい気持ちに包まれます。小さい頃、お手伝いで餃子を包んだ時からずっと蓄積されてきた「餃子を包む時間」を感じているからかもしれません。
* * *
そんなわけで、ちょっぴりノスタルジックな雰囲気で写真を撮ってみました。
レシピは穂高養生園の料理長、やよいさんのブログから、野菜餃子を参考にさせていただきました。とってもおいしくできて大満足でした。オートミールでこんなにおいしい餃子ができるなんて!簡単だし、すごくおすすめです。
-追記(5/12)-
私が愛読しているもうひとつのブログ、マクロビパパさんの昔のブログにもベジ餃子のレシピがあったのを思い出してまた読んでみました。するとその最後にとっても素敵な一行が・・・!やっぱり餃子にはそういうマジックがあるんだな、と納得しました。
今度はこちらのレシピも参考にしてみたいと思います。ますます餃子が好きになりました。
≪おまけ≫
庭の葉ネギが大盛況なので、今日の野菜餃子にも刻んでたくさんいれました。
それにしてもこの子たち、かれこれ半年以上もずーっと私にネギを恵み続けてくれています。
根元は残して葉だけ摘んでいくと、後から後からのびてきます。
すごいです、葉ネギ。お庭やプランターにぜひ。
2011年4月8日金曜日
未来につなげよう!
みなさんに、ぜひ紹介したい動画、田中優さんの講演です。
放射能、日本の電力についての事実が語られています。
そして、未来への希望も見えてくる、素晴らしい内容です!!
http://www.ustream.tv/recorded/13373990
それから、アグリクチュールの伊藤志歩さんがまとめてくれている、オンラインでできる署名運動はこちら!
http://www.agricouture.com/future/2-1lets.html
4月2日から26日までの25日間はチェルノブイリ原発事故の25年目にあたり、18カ国199カ所で、反原発の世界同時行動月間!!日本では、4月10日に高円寺でデモも!
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/977
放射能、日本の電力についての事実が語られています。
そして、未来への希望も見えてくる、素晴らしい内容です!!
http://www.ustream.tv/recorded/13373990
それから、アグリクチュールの伊藤志歩さんがまとめてくれている、オンラインでできる署名運動はこちら!
http://www.agricouture.com/future/2-1lets.html
4月2日から26日までの25日間はチェルノブイリ原発事故の25年目にあたり、18カ国199カ所で、反原発の世界同時行動月間!!日本では、4月10日に高円寺でデモも!
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/977
≪おまけ≫
2011年3月26日土曜日
移りゆく今
こんにちは。
すごく久々の更新になってしまいました。
たびたび訪れてくださっていたみなさん、ご心配くださったみなさん、ありがとうございました。
日本をたつ飛行機の中で、いつもは全く手にとることのない新聞を読みました。
一刻も目を離すことのできない、福島の原発のことが気になったから。
その新聞で、あるスポーツ選手の方が、「今海外にいることがつらい」と言っていました。
今海外に住んでいらっしゃるみなさんも、きっと同じ思いをされているんじゃないかなと思います。私も日本を離れたくはありませんでした。
でも、今回たまたま地震の起きたときに日本に居られたこと、家族や友人のそばに居られたことは、すごくありがたいことだと思っています。
そしてNZへ戻ってきてすぐに、パソコンが壊れてしまいました。
ほそぼそやっているウェブの仕事も、日本とのつながりも、パソコンに頼っているため非常に困りました。実際パソコンは、私にとっては生命線のような役割なのだということを実感しました。
そうして手に負えないことで埋め尽くされてくると、気持ちがふさがって何も手につかなくなります。そんな風に沈んでいるときは、たいてい「今」にしばりつけられているのだと感じます。まるで今この状況がずっと続くかのように思えて息苦しくなる。
だけど、そこから少し浮き上がってみると、だんだんと思い出し始める。
「今」というのがすべての物事の絶妙なバランスで成り立っているにすぎないということ。
そしてそれは、何かひとつが少しでも動くことによってまた次の形へと姿を変える。
そして、すべての物事は水の流れのように絶えず移り変わっているものだということ。
そうすると、今度は今この瞬間にも過ぎ去っていく「今」に焦点を当てているよりも、次にやってくる「今」を変えていくほうに力を注ごうという気持ちになる。
今日明日では変えられないことも多いけど、長い時の中でみれば何もかもが変わっている最中なんだと思うと、救われることもある。
時間はかかるけど、少しずつ。
さっきの新聞には、すごく印象的な三節の短い詩も載っていました。
細かい表現は忘れてしまいましたが、
一節目では、原発への反省について、
二節目では、偉大な自然の力に対する畏敬の念、
そして三節目には私たちがこれから天地と折り合い生きる方法をみつけるだろう、
ということが書いてありました。
これから進むべき方向は、自然、地球にもっと寄り添うことで、そしてすべてとのつながりに意識を向けることで、もっと明確にみえてくるはず。
壮大なようだけど、じつはものすごく根本的なレベルでの変化が求められているような気がします。
次回から、また「かいもり便り」を復活したいと思います。
「かいもりの変貌 その2」も、お楽しみに!
かいもりに帰ったら、ジャイアントマリーゴールドが咲いていました。
2011年2月6日日曜日
A Breath of Life
ニュージーランドの先住民族マオリの人々の挨拶は、
肩を抱き合い、握手をし、おでこをくっつけ、互いの鼻をくっつけるというものです。
そうして生命の源である呼吸を分かち合うというのです。
この挨拶はホンギ(Hongi)と呼ばれています。
そして、分かち合う生命の力(Life force)はマウリ(Mauri)と呼ばれています。
この呼吸=生命力という考え方は、インド古来の言語、サンスクリットでいうところのプラーナ(息吹、呼吸、生命力)そのものです。古くから人間は呼吸を生命力そのものとして重んじてきたのですね。
なんでまたこんなことを考えたのかというと、今日またかいもりにお客さんが来たんです。
パーマストンノースに住むブレント&ジュリーというChayの昔からの友人夫婦とブレントのお父さんの3人。
ブレント&ジュリーには、Chayと私は事あるごとにものすごーくお世話になっていて、宿無しのころは良く泊まらせてもらったし、今でもよく遊びに行ってご飯をご馳走になっったりしています。
ブレントは住んでいるパーマストンノースで環境映画祭を(趣味で)でっかく主催しちゃうような力量の持ち主で、アメリカ人らしい洗練された物腰の素敵なジェントルマンです。
ジュリーはキウイの素敵なワーキングウーマンで、時々一緒にヨガに行ったりもするヨガ友でもあります。
そして、ブレントのお父さんははるばるアメリカから来られていて、数週間NZに滞在予定。
お会いするのは初めてだったんですが、すごく素敵な人でした。
人と時を共にすると、話す内容意外に、というかそれ以上に雰囲気、存在感、生き方などいろんなものを共有するものですが、ブレントのお父さんからは愛情や深さ、包み込むような大きさを感じられて、一緒にいてすごく心地よく、楽しい時間を過ごさせてもらいました。
特になにが、とは言葉では説明できないのですが、会ったばかりなのに、なにか大きなものを分かち合ってる感じを共有できる人って、いるんですよね。
そして夕食を食べ終わって帰るころ、ブレントのお父さんが体の痛みをとるヒーリングをしてくれて、アメリカでヒーラーとして活動していることを知りました。
なんかすごく納得。
そのときにChayと私にかけてくれた言葉がとても温かくて、思わず涙がでてしまいました(うれしくて)。
人生で、たまにやってくるこういう出会いって、まるでマオリの人たちが挨拶としてお互いの生きるエネルギーを共有しあうように、互いを勇気付け、元気付け、心を広げて大きなものにつなげてくれるすごく貴重な時間だなと思うんです。
かいもりは最近お客さんづいています。
Chayも私もだれかが家に来てくれると、うれしくてすごくテンションがあがるんです。
ゲストルームも準備中だし、この先もちょくちょくお客様報告ができそうです♪
※トップの写真は、ブレントがお父さんと2日にわたってガラス工房で体験制作した作品のひとつで、今日おみやげにくれました!宇宙のようにきれい。
《おまけ》
最近のおもてなし料理の定番は、夏野菜の揚げ浸しとズッキーニのマリネ!
2011年1月10日月曜日
床の修繕開始と救援物資
ここは家の前面、北東に面している部屋です。
床が残っている部屋の中でも一番ましな状態なので、普段私たちは机とパソコンを置いてコンピュータールームとして使っています。
その床で、一箇所だけ床板を支える木が腐っているところがあったので、Chayがその部分の修繕を始めました。
知り合いに借りた丸い専用の電動のこぎりで床板を切り、下の木を取り替えます。
昨日は、その後の段階で使う電動やすり(?)も買いました。
このプロジェクトを始めてあらためて知ったことは、男の人はとにかく道具が大好き、ということ。あんまり物を買わないChayですが、やっぱり道具には弱いみたいでどんどんそろっていきます。
そういえばウチの父も、ホームセンターが大好きだったなあと思い出しました。
そしておとといは、母から、救援物資・・というわけではありませんが、
必要なものを送ってもらうついでに、こんなものが届きました!
のりやうどんなんかはNZのスーパーでも簡単に手に入りますが、選択肢が少ないし、やっぱり日本のものとは味が違います。
そして、なんといってもうれしかったのはオモチです!
さっそくお雑煮を作って食べると、やっとお正月が来た!という感じがしました!
この国に住み始めてから、日本の食文化って本当にいいなあ!と改めて思います。
季節ごとの食べものや旬の食材がはっきりとあって、そして地方ごとにも郷土料理なんかがあったりして・・・。
NZのように新しい国に住んでみると、日本のように長年受け継がれてきた文化の中で暮らすということが、すごーく豊かなことだな、と感じます。
日本にいるときは、あたりまえでなんとも思わなかったことが、この経験のおかげで違った角度から見えてきて、それは本当にありがたい財産だなあと思います。
モノの見方や価値観は一生モノですもんね。
(というか、新しいそれらが身につくと同時に人生が変わる、強力なモノだと思います。)
でもその深い文化が染み付いているおかげで、日本人は日本食を求めてしまうんですよね。
大事にしたいことだけど、大変でもあります。
Chayなんて、日本に住んでいたときでも別にNZの食事が恋しくなかったと言います。この国に住んでみるとなるほど、と納得してしまいますが。
あ、でも食い意地の張り具合にもよるのかな・・・(● ̄▽ ̄●;)
今度はお汁粉にして、オモチを食べよっと♪
2010年12月28日火曜日
氏名と年月日
どんな状況だったか詳しくは忘れちゃったけど、
前にChayが、必要も無いのに苗字を聞かれたことについて、
「プライベートなことなのに」と言っているのを聞いて、すごく驚いた。
その感覚、日本人の私にとっては真逆だと思ったから。
初対面だと苗字で呼ぶほうが失礼にならないし気安い。
そして名前を使うのはもうちょっとプライベートに踏み込んでいる感じがする。
家という大きなくくりが先に来て、個がその後にくる、日本の考え方。
そして西洋では逆に、私という個が何よりもまず先にくる。
この考え方は日付を書くときにも同じように働いていると思う。
日本では2010年12月27日というように、年月日という順番。
でも英語では27th December, 2010というように日月年という順番になる。
一番大きなくくりである年が先にくる日本語に対して、
自分がいる今この地点、である日が先にくる英語。
こういう言語の違いはきっと、価値観の違いから来ているんだろうなと思う。
自分より大きな何か、がまずあって、そして自分がいるという感覚と、
自分という地点から物事が始まっていくという感覚では、
たぶん生き心地にも、大きな違いを生んでいるのかもしれない。
私の大好きな本のひとつに、ウィリアム・サローヤンの「パパ・ユーアクレイジー
」という本がある。
少年と父親の、海辺の生活の中でのやりとりが詩的につづられていて、読むとじーんと小さな幸せを感じられるような本で、今までに何度も読んだ。
この本の中では、英語の主語( "I"とか"YOU"とか)を、意図的に省略しないで日本語に訳してある。それがなんとも不思議に響いて面白い。
「父さん、われわれ、今晩そば粉のパンケーキ、食べられる?」といった具合に。
これを読むと日本語ではほとんど主語を使って会話しないのに対して、英語では必ず私、私たち、あなた、といった主語を使っているのだということに気づかされる。
どちらが優れているとか、どちらがいいというものではなくて、
ただ、違うんだなあ、と思う。
前にChayが、必要も無いのに苗字を聞かれたことについて、
「プライベートなことなのに」と言っているのを聞いて、すごく驚いた。
その感覚、日本人の私にとっては真逆だと思ったから。
初対面だと苗字で呼ぶほうが失礼にならないし気安い。
そして名前を使うのはもうちょっとプライベートに踏み込んでいる感じがする。
家という大きなくくりが先に来て、個がその後にくる、日本の考え方。
そして西洋では逆に、私という個が何よりもまず先にくる。
この考え方は日付を書くときにも同じように働いていると思う。
日本では2010年12月27日というように、年月日という順番。
でも英語では27th December, 2010というように日月年という順番になる。
一番大きなくくりである年が先にくる日本語に対して、
自分がいる今この地点、である日が先にくる英語。
こういう言語の違いはきっと、価値観の違いから来ているんだろうなと思う。
自分より大きな何か、がまずあって、そして自分がいるという感覚と、
自分という地点から物事が始まっていくという感覚では、
たぶん生き心地にも、大きな違いを生んでいるのかもしれない。
私の大好きな本のひとつに、ウィリアム・サローヤンの「パパ・ユーアクレイジー
少年と父親の、海辺の生活の中でのやりとりが詩的につづられていて、読むとじーんと小さな幸せを感じられるような本で、今までに何度も読んだ。
この本の中では、英語の主語( "I"とか"YOU"とか)を、意図的に省略しないで日本語に訳してある。それがなんとも不思議に響いて面白い。
「父さん、われわれ、今晩そば粉のパンケーキ、食べられる?」といった具合に。
これを読むと日本語ではほとんど主語を使って会話しないのに対して、英語では必ず私、私たち、あなた、といった主語を使っているのだということに気づかされる。
どちらが優れているとか、どちらがいいというものではなくて、
ただ、違うんだなあ、と思う。
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